若戸大橋は、着工から3年の歳月をかけて1962年に完成し、長きにわたり北九州市民の生活を支え、私たちの暮らしを見守ってきました。無料化となり、交通の利便性が向上することで、若戸大橋・若戸トンネルを利用する機会も増えるのではないでしょうか。
戸畑区版の市政だよりで、3回にわたり戸畑区と若戸大橋の今昔を紹介しました。市政だよりを見逃した方、ホームページでじっくりと読みたい方のためにも、戸畑区と若戸大橋の今昔をホームページ上に紹介させていただきます。
とばたと若戸大橋
若戸大橋の完成まで
現在、1日約5万台もの車両が行き来する若戸大橋・若戸トンネルですが、若戸大橋ができる以前の戸畑と若松を移動する唯一の交通手段は渡船のみでした。
1930(昭和5)年には、その渡船が転覆し、73名の犠牲者を出す大惨事が起こりました。事件をきっかけにして、戸畑と若松を繋ぐより安全な連絡道路の確保を求める住民の声が大きくなり、「若戸海底トンネル」の計画が進められましたが、1937(昭和12)年の日中戦争の開戦で計画が頓挫してしまいました。
戦争が終了し、1950(昭和25)年に起こった五市合併論とあわせて若戸海底トンネル案が再燃しました。1952(昭和27)年には、有料道路を認める「道路整備特別措置法」が国会を通過し、より多くの車両が通行できるとの観点から、トンネルから有料橋へと構想が変わりました。
1959(昭和34)年3月、多くの市民が待ち望んでいた若戸大橋が着工し、1962(昭和37)年9月に完成しました。関門橋、明石大橋、レインボーブリッジなど、日本を代表する吊橋に先駆け、日本で初めての長大吊橋として誕生し、その壮大さから、「東洋一の吊橋」と謳われました。
(昭和37年9月撮影)
貨物渡船と若戸大橋
かつての、戸畑~若松間の移動手段は、渡船が中心でした。渡船場は、学生や工員など多くの人が行き交っていたそうです。自動車の移動も渡船が担っていました。しかし若戸大橋開通後は、その任務を若戸大橋に託し、貨物渡船は廃止となりました。現在は人を乗せて移動する渡船が当時の面影を残しています。
(現在の様子)
(昭和37年9月撮影)
大橋開通を記念して催された「若戸博覧会」
多くのパビリオンが立ち並び、たくさんの人出でにぎわったそうです。会場跡は、ユネスコ無形文化遺産の戸畑衹園大山笠のお汐井汲場、大橋公園など、市民の憩いの場として整備され、現在残る「大気像」や「若戸博記念碑」が当時の面影を偲ばせます。
(現在の様子)
(昭和37年9月撮影)
歩いて渡れる「若戸大橋」
この光景をみて懐かしいと感じる方も多いのではないでしょうか。
開通当初、若戸大橋は人が歩いて渡れる橋でした。多くの人が、若松と戸畑にと歩いている様子が分かります。しかし、交通量の増加に伴い、慢性的な渋滞が深刻化。その対策として4車線化することになり、昭和62年に歩道は姿を消しました。
(現在の様子)
(昭和37年9月撮影)
形になっていく「若戸大橋」
若戸大橋の建設の様子をとらえた写真。橋げたを取り付けているところです。写真からも、かなり大規模工事であったことがうかがえます。また海上は多くの船舶が行き来し、当時の賑わいが感じられます。
(現在の様子)
(昭和36年頃撮影)
浅生公園からの若戸大橋の眺め
(昭和50年代撮影)
若戸大橋開通に合わせ、浅生公園には九州一(当時)の大噴水が整備され、戸畑の観光名所でもありました。
しかし、平成9年に策定された「戸畑まちづくり構想」により、公園周辺の風景は大きく一変。長年愛された噴水も今はなく、平坦で芝生のある公園として再整備されました。
かつての戸畑区観光スポットは、今では区民に憩いの場として、子どもたちの歓声が響いています。
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