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石めぐりその1

更新日 : 2024年3月6日
ページ番号:000010236

戸畑にある「石」を探して・・ 

  • 国境石
  • 牧水碑

国境石

位置図

 昔、戸畑区中原の境川を境にして西側(戸畑側)が筑前国、東側(小倉側)が豊前国に分かれていました。
筑前国と豊前国で国の境をめぐって、もめごとが多かったため国境石が建てられました。国境石が建てられたのは江戸時代だといわれています。
 このように、市のまん中に、昔の国境石があるのはめずらしいことなのです。

国境石その1

遠賀郡中原村抱

 遠賀郡中原村抱

従比控石江ノ口壹番御境石
東外面正半迄十五間卯ノ
六分當但壹間六尺五寸縄
寛政九年八月建之
 「この控石から、江ノ口の国境石の東側の面まで15間(約30メートル)あります。卯の方向(東の方向)にあたります。但し、1間は6尺5寸縄(約2メートル)です。」という意味です。
 寛政9年は1797年です。

 所在地:北九州市立自然史・歴史博物館

 (注) 控石=国境石がどこにたっているかを表している備えの石

 一口メモ:

  昔は干支で時刻や方角を表していました。
北=子(ね)、東=卯(う)、南=午(うま)、西=(とり)

国境石その2

遠賀郡中原村抱

 遠賀郡中原村抱

従比控石江ノ口壹番御抱控石
東外面正半迄七十弐間寅三
分ニ當但壹間六尺五寸縄
寛政九巳年八月建之

 「この控石から、江ノ口の国境石の東側の面まで72間(約144メートル)あります。寅の方向(北東の方向)にあたります。但し、1間は6尺5寸縄(約2メートル)です。」という意味です。寛政9年は1797年です。
残念ながら現在は残っていません。
昭和36年出版の「戸畑市史」から抜粋しました。

国境石その3

国境石1

 從是西筑前國

これより西 筑前国

天保12年(1841年)に再建されました。

所在地:北九州市立自然史・歴史博物館

国境石その4

国境石2

 從是東豊前國小倉
 「この石は江戸時代に豊前国と筑前国との国境を示した印であり、小笠原藩と黒田藩の国境紛争における箱崎協定によって元禄15年頃に両国の国境にある境川(現在の戸畑区中原)の川中に建てられたものである。
 その後天保11年の大洪水で洗い倒され同13年に再建されるが、昭和32年の境川区画整理事業の施行に際し紛失の恐れがあったため、この地に移したものである。
なお、「筆者は小笠原藩の祐筆西田直養とあるも確かではない。」説明書より

 所在地:戸畑図書館横

国境石その5

国境石3

 從是西筑前國
遠賀郡中原村抱
文化十四年丁丑三月再建立

筆者は福岡藩祐筆 二川相近(1767~1836)と考えられています。
文化14年は1817年です。

所在地:金毘羅池

牧水歌碑

 若山牧水は、宮崎県に生まれ、明治から大正時代に活躍した歌人です。
生涯を旅に過ごし、四季折々の自然と人生を、8000首もの短歌にうたいあげました。牧水は自身が主宰していた歌誌「創作」の戸畑支社の招きで、3回戸畑を訪れています。

牧水碑1

「新墾のこの坂道のすそとほし 友のすがたの其処ゆ登り来」
 
 この歌は、大正14年11月3日、八幡荒生田の宿から、夫人とともに当時はまだ開墾途上の鞘ケ谷を越えて戸畑の毛利雨一樓を訪れた時に詠んだ歌です。

 所在地:戸畑図書館 芝生広場

牧水碑2

「われ三たび此処に来りつ家のあるじ 寂び定まりて静かなるかも」

昭和2年5月、3回目に戸畑を訪れた時の歌です。

 所在地:戸畑駅北口

このページの作成者

戸畑区役所総務企画課
〒804-8510 北九州市戸畑区千防一丁目1番1号
電話:093-881-0039 FAX:093-871-4807

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