八幡の消防組織について、江戸時代(小倉藩時代)には武家火消が設けられ自衛的消火に従事していましたが、町火消的な組織についての記録は残されていません。
明治時代
私設消防組
明治2年、百姓一揆により多数の住宅が焼失し、甚大な被害を受けたことから、村民が協議し、火消組と称する消防組織が結成されました。
火災時は鐘、太鼓を乱打して知らせ、組員は自由な服装で、手桶を用いて消火活動を行っていたと伝えられています。
枝光村は明治17年、八幡村は明治23年防火施設の必要性を痛感し、有志により私設消防組が組織されました。
明治21年8月、荒生田村の庄屋中村種之助が、槻田消防組を創設しました。
明治27年、尾倉村に私設消防と称するものがあり、龍吐水ポンプ、手桶等を備え防火警戒にあたっていたと言われています。
公設八幡町消防組の創設
明治36年11月、公設八幡町消防組が創設され、大字大蔵を第一部(50人)、大字枝光を第二部(70人)、大字尾倉を第三部(100人)とし、各部に龍吐水、腕用ポンプが配置されました。
公設八幡町消防組組織の改編
八幡製鐵所事業の発展に伴い、戸数、人口も増加し、消防組織拡充の必要性に迫られ、明治40年11月、中央区を第三部とし、大字尾倉を第四及び第五の2部に分割増設し、5部制に改編しました。その後、大字前田を第六部としました。
八幡製鐵所の設置
当時軍需、民需ともに輸入に依存していた鉄の自国生産を行うことを目的として明治29年3月29日、製鐵所官制が発布されました。設置場所については、福岡県遠賀郡八幡村、同企救郡柳ヶ浦、広島県安芸郡阪本村等の候補地の中から、運輸の都合、水の便、地盤の関係等から検討された結果、近くに石炭産地を控えていた八幡村に決定されました。
ドイツの専門家に設計を委嘱し、明治30年に着工、34年2月5日、第1溶鉱炉に火入し、同年11月18日、盛大な作業開始式を催しました。以来、この日が起業記念日と定められました。
当時の道具等
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