平松地区の墓地(小倉北区日明五丁目2番)の中に「首切地蔵」と呼ばれる北向きの地蔵尊があります。台座に「天明7丁末歳(1787)仲冬11月」とあり、「心光寺義誉上人弟子簾誉盤哲」が、断罪された仏の供養のために建てられたものです。昔、地蔵は罪人が処刑されると、その方向に向きを変えると言われていました。
江戸時代には、八百屋町に「獄屋」がありました。死罪が確定した者は処刑のために八百屋町→室町筋→鋳物師町→平松へ出て、板櫃川の「地獄橋(今は極楽橋)」を渡り、首切地蔵の前を通り処刑場で処刑されました。
その墓地の西端に「日明濱處刑諸霊塔」と刻んだ供養塔があり、手前には「一字一石塔」があります。横に享和元年辛酉(1801)夏、立法寺の廣研院日教和尚建立と書かれています。この処刑場では多くの者が処刑されましたが、中でも有名なのは小笠原6代藩主忠固の時代の文化11年(1814)に、小倉で小笠原藩を二分する騒動(白黒騒動)があった時のリーダー格の儒学者上原余市は吉見陣(俗称砲台山)の烽火台に火をつけたので「火あぶりの刑」に処せられました。