九州の要(かなめ)の地である城下町小倉は、長崎街道をはじめ九州の五つの街道の起点であり、人や物、情報が行き交う大きな宿場町でもありました。毎年、参勤交代の大名行列やオランダ商館のカピタン行列、長崎奉行たちがここから船で関門海峡を渡り、江戸との往復をしたわけです。このため九州の諸大名たちが宿泊する「本陣」が数十軒もあり、城下は賑わい繁栄しました。
長崎街道は江戸時代、小倉-長崎間57里(およそ228キロメートル)を25か所の宿場で結んでいました。徳川幕府が鎖国体制をしいていたなかで唯一、海外への窓口を開いていた長崎には、海外からの人物・知識・文化が流入するため、長崎街道は貴重な“文明ロード”となっていました。