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長崎街道

更新日 : 2023年6月7日
ページ番号:000009741

 九州の要(かなめ)の地である城下町小倉は、長崎街道をはじめ九州の五つの街道の起点であり、人や物、情報が行き交う大きな宿場町でもありました。毎年、参勤交代の大名行列やオランダ商館のカピタン行列、長崎奉行たちがここから船で関門海峡を渡り、江戸との往復をしたわけです。このため九州の諸大名たちが宿泊する「本陣」が数十軒もあり、城下は賑わい繁栄しました。

 長崎街道は江戸時代、小倉-長崎間57里(およそ228キロメートル)を25か所の宿場で結んでいました。徳川幕府が鎖国体制をしいていたなかで唯一、海外への窓口を開いていた長崎には、海外からの人物・知識・文化が流入するため、長崎街道は貴重な“文明ロード”となっていました。

長崎街道いまむかし

長崎街道のイメージ
「豊前国マップ」長崎街道小倉城下町の会発行より 江戸時代の長崎街道のイメージ
長崎街道
現在の長崎街道

1.常盤橋 2.常盤大橋碑 3.御客会館跡 4.伊勢屋敷跡 5.大門跡 6.明乗寺 7.小倉城 8.安国寺 9.紺屋町口門跡 10.伊織屋敷跡 11.思永館跡 12.心光寺 13.お樹木亭跡 14.田町神命宮 15.到津口門跡 16.幸福院地蔵 17.清水口門跡 18.清水寺 19.古戦場跡 20.水かけ地蔵尊 21.旧九州鉄道茶屋町橋梁 22.小笠原番所跡 23.洛田境石

水かけ地蔵尊(長崎街道碑)

 清水五丁目、歯科大学裏の旧長崎街道に面して、千五百年以前から現在まで存在する湧き清水の泉があり、泉のそばに地蔵尊が祀られています。
 この泉は、神功皇后が新羅出兵(391年)の途中立ち寄られてお飲みになったという言伝えがあり古くから『皇后水』といわれてきました。

 その後天平12年(740年)板櫃川の合戦に臨み、聖武天皇の命により守護仏が安置されたので『観音霊水』といわれてきました。また『弘法の水』ともいい、唐から帰国した弘法太師が巡回のとき、改めて旅人の憩いの水とされたといわれています。この道を西に下った所が古代の「到津宿駅」(屏ケ坂遺跡)で、古代の太宰府大路と長崎街道が重なる道です。

長崎街道碑
水かけ地蔵尊

三条国境碑

三条国境碑

 八幡東区高見2丁目に、高さ329センチメートルの国境碑があります。「是より西筑前国」の字は、黒田藩城代組書役二川相近が書いたものです。元禄3年(1691)江戸参府のオランダ商館医師ケンペルも文政9年(1826)シーボルトも、国境石は街道の両側にあると記していますが、現在は一つだけとなっています。

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