元々、到津にあった社が大分県の宇佐神宮と一緒にまつられるようになって初めて、到津八幡神社と呼ばれるようになりました。その後の時代の歴代藩主から、「小倉城の産土神」として大切に扱われてきました。また、一つの社殿に二つの稲荷神社をまつっている稲荷神社でもあります。
到津八幡神社
黄門様がわたった石橋
テレビでおなじみの「水戸黄門」は、水戸徳川家の藩主だった徳川光圀がモデルになっています。
江戸にあった水戸徳川家の屋敷の中に、後楽園という庭園がありました。この場所はのちに兵器工場となり、その工場が小倉に移ってきた時、後楽園にあった石の橋も運ばれてきました。
今、社務所の前の枯れた池にかけられているこの橋の上を、300年以上前に「水戸黄門」が歩いていたのかもしれません。
宇佐八幡宮とのかかわり
1188年(文治4年)、後鳥羽上皇は以前から到津にある社に、宇佐神宮(大分県)を一緒におまつりするよう命じました。この時から到津八幡神社という名前になりました。
1561年(永禄4年)、戦国大名の大友宗麟が宇佐八幡宮を攻め、建物などをすべて焼き払ってしまいました。
到津八幡神社も戦乱によって荒れ果てていましたが、宇佐八幡宮の神官たちは到津にやって来て、それから23年間この地に留まることになりました。
その後、小倉を治めた細川氏・小笠原氏は、到津八幡神社を「小倉城の産土神(土地の守り神)」として大切にし、歴代藩主が本殿や鳥居を再建するなどして到津八幡神社は再興されました。
二つの稲荷神社
到津八幡神社では、一つの社殿に二つの稲荷神社を奉っています。一つは小倉城内にある勘定所の守り神として奉られた「勘定稲荷神社」で、もう一つは水戸徳川家の江戸屋敷内の錦春門に奉られた「錦春稲荷神社」です。「錦春稲荷神社」は、関東大震災の後、東京にあった兵器工場が小倉に移ってきた時、一緒にやってきました。
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