1569年(永禄12年)、中国地方の毛利氏が現在の小倉城のある場所に城を造り、1602年(慶長7年)、細川忠興が今のような城を造りました。
関ヶ原の戦いで徳川方の武将として活躍した忠興は、小倉を中心に約39万9千石の土地を治めました。
1632年(寛永9年)、2代目藩主細川忠利は肥後国へ移り、変わって播磨国から譜代大名の小笠原忠真が小倉に入国しました。
江戸時代から九州の玄関口であった小倉は、大変賑わいを見せていました。
小倉城と小倉藩
細川氏と小笠原氏
城下町をつくった細川忠興
細川忠興(1563~1646)は、織田信長・豊臣秀吉につかえ、丹後国(京都府)を与えられました。
忠興の忠は、織田信忠(信長の子)の一字をもらって名付けられました。秀吉の死後、徳川家の家来となり、関ヶ原の戦いでも活躍しました。小倉藩主としては歌や茶を好み、海外貿易にも力を入れました。小倉城をつくり、城下町小倉を賑わいのある町につくり上げました。
美術を好んだ小笠原忠真
小笠原家は関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えた譜代大名でした。小笠原忠真(1596~1667)は、大阪の陣で徳川方として戦い、父と兄が戦死したため、小笠原家を継ぐことになりました。
忠真の忠は、二代将軍徳川秀忠の一字をもらって名付けられました。
小倉藩主としては、広寿山福聚寺を建てたり、中国から伝わった黄檗美術(書・絵など)を広めたりしました。
細川忠興
小笠原忠真 (広寿山福聚寺所蔵)
小倉城と小倉藩
細川忠興の造った小倉城の天守閣は、「唐造り」と呼ばれ、4階と5階の間に屋根の庇がなく、5階が4階よりも大きくなっているのが特徴です。
城下町を囲む外堀は、現在の砂津~中津口~香春口~豊後橋~金田~竪町を結ぶ約8キロメートルになります。石垣は切石を使わず、足立山から運び出した自然の形の石を積み上げて造っています。
昔の天守閣は1837年(天保8年)に焼けてしまい、今の天守閣は1959年(昭和34年)に建てかえられました。
江戸時代の大名の分類
親藩
徳川家の親類となる大名。その中で水戸・尾張・紀伊を御三家という。
譜代大名
関ヶ原の戦い以前から徳川家の家来だった大名。
外様大名
関ヶ原の戦いの後、徳川家の家来になった大名。
1632年(寛永9年)に細川氏に代わって小笠原忠真が小倉に入国したのは、譜代大名の小笠原氏に外様大名の毛利氏や黒田氏・島津氏を見張らせるためでした。小笠原忠真の母は徳川家康の孫にあたるなど、徳川家と小笠原家はとても深いつながりがありました。
幕府は、親藩・譜代大名を江戸周辺や全国の要所に置き、外様大名を江戸から離れた場所に置きました。そして、藩の取り潰しや領地替えなどを行ないながら力を強めていきました。
小倉のキリスト教
(神戸市立博物館蔵)
1549年(天文8年)、スペイン人のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、平戸(長崎県)・博多・小倉・山口と伝道活動を行ないました。毛利勝信が城主の時、小倉のキリスト教信者が増え始め、細川氏の代となってからはさらに増えたといわれます。
忠興の妻・玉(洗礼名:ガラシャ)は関ヶ原の戦いの数日前に亡くなったのですが、忠興は小倉でキリスト教を保護しました。江戸時代の初め、小倉城下にはキリスト教信者が2,000人いたと記録されています。
ところが、1612年(慶長17年)、忠興は急にキリスト教を禁止する命令を出しました。そして、教会を壊したりキリスト教信者を処刑したりしました。これは、江戸幕府がキリスト教が国を乱すと考え、禁止するように命じたからです。
小倉藩はキリスト教信者を見つけるために、キリストやマリアの像を踏む「踏絵」をさせました。こうして、小笠原氏の代にはキリスト教信者はほとんどいなくなりました。
城下町「小倉」
小倉は本州と九州を結ぶ場所にあったため、町は大変賑わっていました。宿屋が集まっていた京町・室町付近(JR小倉駅から西小倉駅付近)には、小倉織(木綿の織物で当時の小倉藩の特産品)を売っている店もありました。
小倉には、仕事をそのまま町の名前にした町名があります。これは、江戸時代から同じ仕事をしていた人が同じ町に多く住んでいたからです。
魚町
魚を売る仕事をしていた人が住んでいた町
馬借町
馬を使って荷物を運ぶ仕事をしていた人が住んでいた町
船頭町
船で仕事をする人が住んでいた町
米町
米を売ったり運んだりする人が住んでいた町
城下町では、城を中心にまわりに家来の武士が住み、それを囲むように町人が住んでいました。 また、小倉は中津街道や長崎街道の出発点であったので「九州のすべての道は小倉に通じる」と言われていました。城下町から街道に通じる門は八ヶ所ありましたが、香春口門(今の田川郡香春町に通じる門)や中津口門(今の大分県中津市に通じる門)はそれぞれ「香春口」「中津口」として、地名に残されています。
江戸時代の単位
一石とは
江戸時代、米の量を表す単位として「石」という単位が使われました。 一石が約150キログラムになるので、小笠原家15万石は、約22,500トンの米が獲れたことになります。
一両とは
一両はお金の単位で、今のお金では8万から10万円ぐらいだと考えられています。一両を稼ぐのは、とても大変だったのです。
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