小倉と日露戦争
明治時代になって、小倉のまちは軍隊と深い関わりを持つようになりました。
特に小倉に第12師団が置かれたことはとても大きな意味を持ち、たくさんの部隊が配置されると、人が増えただけでなく軍隊に関係した施設が建設されたり、様々な物資が運び入れられたりするようになりました。そのため、静かだった小倉の街の雰囲気は慌しく変化していきました。
(写真は、第12師団司令部正門跡)
小倉第12師団の司令部が置かれた小倉城内には、その当時の正門の跡が残っています。また、紫川にかかる橋の中には、「陸軍橋」(今の紫川橋)と呼ばれるものもありました。
日露戦争と足立駅
たった一週間だけ使われた足立駅
1904年(明治37年)日露戦争は始まった2日後の2月12日、戦争にかかわる輸送の仕組みを整えるため、「小倉裏線」が開業しそれによって鉄道を利用するほとんどの兵士は、これまでの小倉駅から新しく出来た足立駅(足立停車場)を利用することになりました。
しかし、戦争にかかわる輸送が一段落した2月19日、足立駅では兵士を取り扱わないようになったのです。その12年後、もう二度と賑わうこともなく足立駅はひっそりと姿を消しました。
(写真は、足立駅があった辺り三萩野一丁目)
小倉と軍隊との関わり
年号 | できごと |
---|---|
1871(明治4)年 | 小倉に西海道鎮台が配置される。 |
1875(明治8)年 | 小倉に歩兵第14連隊が配置される。 |
1877(明治10)年 | 歩兵第14連隊が、西南戦争に出兵する。 |
1894(明治27)年 | 歩兵第14連隊が、日清戦争に出兵する。 |
1898(明治31)年 | 軍備を拡張することとなり、小倉に第12師団は配置される。 |
小倉に置かれた第12師団の部隊司令部,歩兵第14連隊,歩兵第47連隊,騎兵第12連隊,野戦砲兵第12連隊,工兵第12大隊,輜重兵第12大隊 | |
1904(明治37)年 | 第12師団が、日露戦争に出兵する。 |
1925(大正14)年 | 第12師団司令部が久留米に移転し、多くの部署が移転・廃止される。 |
(「北九州市史」ほか)
常陸丸記念碑
南小倉小学校(小倉北区新高田一丁目)の石碑は「常陸丸記念碑」です。常陸丸は1904年(明治37年)2月10日に始まった日露戦争のため、6月14日に広島の港を出て、関門海峡を通り朝鮮半島に向かいました。しかし、沖ノ島付近でロシアの軍艦から砲撃を受けて沈没、救助された人は全乗員の1割未満でした。
1905年(明治38年)11月、亡くなった多数の人のために、小倉第12師団の人たちや街の人たちがお金を出し合って記念碑を建てました。
南小倉小学校そばには、戦死した兵士のための陸軍墓地があり、そこには日露戦争で戦死した小倉第12師団の人たちのお墓もたくさんあったそうです。1942年(昭和17年)、足立山の麓に忠霊塔が完成し、お墓を移した後も記念碑だけが残されたと考えられています。
また、木町三丁目にある普門寺の墓地の中には、日露戦争のときに捕虜になったロシア人兵士のお墓が2基あります。
このページの作成者
小倉北区役所総務企画課
〒803-8510 北九州市小倉北区大手町1番1号
電話:093-582-3339 FAX:093-581-5496