安国寺(小倉北区竪町1丁目)は、室町幕府を起こした足利尊氏が全国に建てたお寺のひとつです。お寺ははじめ、古船場の近くにありましたが、細川忠興が小倉城を建てるときに現在の場所・竪町に移されました。
また、森鴎外の短編小説「二人の友」に出てくる“安国寺さん”が、この寺の第27代住職であり、鴎外は小倉在住中、師と親交を重ねていました。境内には、芭蕉ゆかりのものをはじめ、1622年(元和八年)最上藩の内紛で細川藩預かりとなった最上光直の墓と、伊達騒動に連座してこの地に流された伊達宗興の墓など、歴史上の人物にまつわるものがたくさん残されています。
安国寺
木造松尾芭蕉翁像
「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり...」ではじまる『奥の細道』の作者である松尾芭蕉の木像が安国寺に安置されています。 高さ約40センチメートルの坐像で、芭蕉の弟子、森川許六が、芭蕉が亡くなったあと、大切にしていた桜の木を切って彫ったものだと言われています。
【注】普段は一般公開していません。
柳塚
柳塚も芭蕉ゆかりのものです。文政年間(1810年~1830年)のはじめ頃、小倉の俳人たちが、芭蕉が書いた短冊をうめ、芭蕉をしのんでたてた塚です。
横長い石には「八九間 空で雨降る柳哉」という短冊にかかれていた芭蕉の句が刻まれています。
最上光直・伊達宗興の墓
最上家のお家騒動
最上義光の弟で、楯岡城主(今の山形県)であった最上光直は、義光の死後、最上藩のお家騒動に関わり、小倉藩の細川忠利にあずけられました。忠利は、光直を大事にしました。光直は、1629年(寛永6年)に亡くなり安国寺にほうむられました。その後も子孫たちは、細川藩に仕えました。
伊達家のお家騒動
小笠原藩2代目藩主忠雄のときの話です。
仙台藩(今の宮城県)の3代目の藩主であった綱宗は行いが悪く、隠居となりました。そのあと幼い綱村が藩主になりましたが、後見人となった伊達宗勝は藩主の座をねらおうとしました。このお家騒動で宗勝の息子宗興は1671年(寛文11年)小倉藩にあずけられました。伊達宗興は、独眼竜と言われた伊達政宗の孫にあたります。
宗興は、54歳で亡くなり、安国寺にほうむられました。
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