月日:2023年2月17日
場所:北九州市役所
資料:(参考配布)「元気発進!北九州」プランの取組みと実績(PDF:1MB)
令和5年(2023年)2月17日北九州市長退任記者会見
会見の動画(YouTube)
担当者
ただいまから、北橋市長退任記者会見を始めさせていただきます。それでは、市長からご挨拶お願いします。
市長
4期16年になりますが、このたび、19日をもって退任することになりました。市民の皆様方には、市政に対するご理解とご協力を賜り、深く感謝しております。また市政記者会の皆様方にも、市政について、たくさん情報を市民の皆様にお届けいただきまして、誠にありがとうございました。振り返りますと、いつも大きな問題に直面していたような感じがいたします。リーマンショックがあり、そして東日本大震災がありました。そして、平成21年に財政的に非常に厳しい状況に至ると、行革待ったなしという状況がありましたし、2期目にかけては、暴力団の発砲事件というものが、たくさん起こりまして、暴力追放運動、非常に大きいテーマがありました。また地方創生というテーマが、国においても、非常に重視されまして、人口減が大変大きい本市にとりましても、地方創生というテーマに向かって、各界挙げて取り組んだ時期がありました。そして現在のコロナ禍という、4期16年、いつもそういう試練に直面していたわけでありますが、議会、また市民、多くの方々のご理解、そしてまた真摯な対話によって、一つ一つそれを乗り越えてきたと思います。子育て、あるいは福祉、そして、DXの問題、環境、SDGsのテーマなど、いくつかの分野では、一定の評価をいただいているのではないかと思います。こうした評価というのはひとえに、市民、各界、議会の皆様方の深いご理解とご支援のおかげであり、また市職員の皆さんの真摯な取り組みの成果だと思っております。そうした方々と一緒に4期16年、仕事ができたことを大変自分は光栄に思っておりました。お世話になりました。議会や市の職員の皆さん方にも、心から感謝を申し上げたいと思います。最後の政府への要請は、鈴木財務大臣への(北九州空港の)滑走路延長の要請でありまして、市議会議長、そして県知事、苅田町長と一緒に出向いたわけであります。それが政府に対する最後の要請になるわけであります。また当日、国土交通省の首脳にも同様の要請を行いました。自分としても4期16年、かなり度々、政府の方には政策提案活動をしておりますけれども、最後の締めくくりが滑走路の延長というテーマでありました。これまで地方創生の観点からも、物流の拠点化というのは一大テーマであったわけでありますが、この開港以来の悲願であったこのテーマについては、創貨あるいは集貨を活発におこなって新しい航空便を開拓すると。ひたすら、それに取り組んできたわけでありますが、昨今それが一定の成果を上げまして、いよいよ政府によって正式に決定される日が近いのではないかと感じて、最後の政府要請を終えてきたところであります。またもう一つ地方創生の観点から、成長戦略の大きい要であります、脱炭素、カーボンニュートラルにつきましては、洋上風力の、日本の大きな拠点として、来月着工となります。このほか、ここには水素・アンモニアの開発拠点を今準備しているところでありますけれども、この環境、あるいは脱炭素という、この一大テーマにようやく内外、経済も社会も大きく、それが変わりつつありますので、これも大きな成長が期待される分野であります。一番苦労が多かったのは、安全・安心なまちづくりでありまして、市民、各界一丸となって取り組み、この7年間全く事件もなく、劇的に治安は改善いたしました。それに伴って130もの会社が、大中小ありますけれども、北九州に投資をするようになった、その中に日本IBM(株)も含まれます。このように、若者にも大変人気のある、そういう業種についても着実に成果を上げてきた。これはやはり劇的な治安の改善によるところが大きいと自分は思っております。このようにこの成長戦略、地方創生の目で、この種をまき、芽が出てまいったところだと思います。今後は民意を代表する市議会と新市長が真摯な対話を通じて、それを大きく育てていって欲しい。地域の発展のために頑張っていって欲しい。私は市民の1人になって、その発展を願いながら、自分なりにできる地域での活動というものを考えていきたいと思っております。この間、大変お世話になり、ありがとうございました。
担当者
それでは質疑応答に移ります。初めに、幹事社からご質問をお願いします。
記者
市長退任を表明されてから、これまで市長選挙とか、大型の企業案件などもありましたけれども、怒涛のような数ヶ月間だったと思います。改めまして、市長として最後の日々、どのような気持ちで過ごされて、どのような気持ちで公務を果たされてきたか、その辺の今の率直な思いをお聞かせください。
市長
そうですね。皆様から、5選はあるのですか、ないのですかという質問を昨年の初め以来、度々いただいてきたわけであります。今だから言えることでありますが、自分の気持ちの中ではもう結論を出しておりまして、そういう意味から自分のお話した内容を辿っていただけると、一貫していると思うのでありますが。ただ、バトンを渡す、あるいは交代するときというのは、ちょっとした政党間のすれ違いであったり、いろんな時の風如何によって、思わぬことが起こりうるものでありますから、やはり市政の発展のためには、できるだけ安定した体制の継続が望ましいのではないかと考えまして、自分が正式に出処進退を明らかにするタイミングについては、少し時間をかけたところであります。なぜ、そういう保守中道の安定体制を自分が昨年の初め以来考えていたかというと、ほかでもありません。自分の1期目のときに本当に激烈な選挙がありました。本当に街を二分する激しい選挙でありました。勝つには勝ちましたけれども、そのあと、何をするにも議会に提出してそこで承認をいただく、あるいは、何をするのも市民、各界に協力を呼びかけて、コラボで一緒にやらないといけない。そういう時に、この対立解決の風潮を引きずるということが、いずれにしても、街の発展には良くないというふうに本当に痛感いたしまして、1期目のそうした体験からして、当時の政権与党との距離を縮めること、あるいは相まみえて戦ったいろんな団体の首脳とも、胸襟を開いて、何でも相談できる、そして街のために一緒に行動ができるようになるために相当時間を使ったということなのです。それを考えたときに、今ようやく治安も良くなっていろんな成長戦略も前に進み始めていますので、ここは中央政府との関係も含めて、できる限り円満な選出が望ましいという、自分の経験を踏まえたことでありました。それゆえに出処進退を正式に表明する時期が遅れたということであります。ただ、それで1人の候補者を擁立するという方針が、関係各方面から示されまして、自分としましては、応援団の1人に加わるという気持ちでおりましたが、いろんなところから要請があって、選対本部には直接入らないのですけれども、そこの最高顧問という形で、片山先生と一緒に自分は役割を仰せつかりましたので、自分としても微力ではございますが、精一杯その方の調整のために努力をしてきたということです。結果は自分の期待をした通りにはなりませんでしたが、これにはいろんな反省点も、またいろんな分析もあろうかと思いますが、それは選対関係者、各方面、専門家、メディアの方からもいろんな分析がされつつある時でございますから、敢えて今日自分の方から申し上げることもないと思いますが、もう結果が出ましたので、これからの市政を考えますと、やはり民意を代表している市議会の任期は2年ありますので、その市議会と新市長とが真摯に対話を重ねていただいて、市民のために、市政の発展のために、また、時には切磋琢磨し、時には白刃を交える議論がありうるかもしれませんけれども、また、車の両輪のように、合意に達した点については、しっかりと手を携えて前進していって欲しいなと思っております。
記者
ありがとうございました。幹事社からは以上です。
記者
16年間ご苦労様でした。いろんな課題があって、大変な16年間だったと思うのですけど、その中で今日最後の登庁日を迎えられた率直なご心境を一言で教えていただきたい、というのが一つ。
あと、先ほど市長から言われた安心・安全なまちづくりが前進したといったことについて、これに関しても市長先頭に立って、危険な思いをされた中で、これだけ治安が劇的に改善したと思うのですけど、これについて今振り返って、改めて市長の心境というのをお聞かせいただきたい。
最後に、いろんなご功績があると思うのですけれども、その中でひとつ、東日本大震災の災害がれきの受け入れ、これはすごいご英断だったというように私は思っているのですけれども、それに関して今振り返ってどうお感じになるのか教えてください。
市長
市長選の時には、何かと大変忙しくて、ゆっくりいろんなことを考える余裕がなかったのですが、終わりまして2週間、少しは退任するまでの間、時間があるので、いろんなことを思いめぐらせる余裕があると思ったのですが、2回の東京出張が前から決まっていてどうしても出ないといけない。あるいは朝から晩まで、それぞれの各部局の重要課題について報告を受けて、そして確認するという作業がびっしり入っておりまして、そういった意味では、ゆっくりと思いをめぐらす余裕なく、今日を迎えたところであります。それだけに日が経って、いろんな思いというものがよぎるのではないかと思いますが、ただ16年前に初めて登庁した時に、思わず身近な人に漏らした言葉を、最近教えてもらいまして。自分が言ったことを忘れていたのです。「すごい孤独の中で登庁した」という、「1人ぼっちでこの市役所に来たというようなことを、当時16年前、聞かされました」と、こういう市の職員さんがおられまして。やっぱりあの時は本当に街を二分する戦いの直後だったものですから、市役所に入る時にも、何か1人孤独な思いで入っていったのだなあということを思い起こしまして。改めて今日皆さん方と最後の退任のお別れの挨拶をしたのですけれども、よくぞ頑張って一緒に仕事をしてもらったなあと。やっぱりそれは市長のためにでは決してなくて、やっぱり愛する市のために、市の発展のために、市民のためにという、その職業倫理だと思うのです。そういう市の職員の皆さん方の、今日までの本当に真摯なご協力、一緒にコラボで仕事をさせていただいたことを自分は本当に光栄に思っておりまして、本当にすばらしい先輩後輩に恵まれたなと、自分は幸せ者だということを今改めて感じております。それだけに日が経つに従ってすごく寂しくなるのではないかなという気がいたします。
2番目に安全・安心でありますけど、やっぱり脅迫状が来た時には愕然としましたね。できることならば、それがメディアの皆さん方に知られないことを望んだのです。そういうのはやっぱり親戚一同もおりますので、みんな心配しますので。でもそれはいつしか皆さんの目に触れることになって、今だからこうやって振り返られるのですけど、その時はやっぱり何が起こるかわかりませんし、不安との戦いでした。でもやっぱり厳しい局面に身を置いたからこそ、何というか、みんなと協力し合って一つの目標に向かっていくことの大切さというか、何というか、決して挫けない、頑張らなきゃいけないのだという、そういう気持ちにさせてくれたのですね。不安の中だからこそ、いろんな人と一緒に力を合わせますよね。市の職員の皆さん、警察の皆さん、各界の皆さん。そうすると皆同じように不安に直面しながらも囲まれて頑張っているわけです。そこで挫けたら何にもならないのだ、これが本当に街の発展を阻んでいるのだと、だからこの治安さえ良くなれば、この街の投資というのはすごく増えるのだと、この街にはすごいポテンシャルがあるのだという。この問題を解決したときに、我々市民が共有できる世界の大きさというものも、みんな大なり小なり気づいていたと思いますし、だからこそ、不安の中で、同じような境遇にいるからこそ励まし合おうということになったということであります。そういった意味で自分にとっては、本当に良い体験をさせていただいたのだなと。あの時一緒に苦楽を共にしていただいた方々に本当に心から感謝申し上げたいと思います。
それと、がれきの受け入れですが、自宅にデモ隊が来ると聞いた時には自分も慌てまして。自分は18、19歳の頃には、棒を持ってヘルメットかぶって、わっしょいわっしょいやっているのを実際見ておりますので、あんまり違和感はなかったのですね、そういう人たちが世の中にいるということは。でもやっぱり近所の人もそうだし、もう家族にはすぐ電話しますよね、すぐに家を出ろと。そしてしばらく家に戻るな、離れていろと、危ないというふうに電話したの覚えています。だからあの時もやっぱり絶対反対、認めないという人達がもう全国からどっと集まってこられますし、中には阻止するためにがれきを運ぶトラックの下に潜り込んだ人もいたのですね。よくぞそれで怪我をする人が出なかったと思っています。もうここも事実上占拠みたいになりまして、もう出入りが自由にできない状況が続きましたので、大変でしたね。でもあの時思ったのですが、正直言うと、挫けそうになったこともあったのですね。それはどんな時かというと、風評被害に対して、国は、当時の野田内閣だったと思うのですけど、できる限りのことをしますと言うのですけれども、実際、風評被害が起こった場合に魚価が下がったら、漁民に対して誰が手を差し伸べるのかと。それを考えると、本当にこれを受入れるということが、多くの人の共感を得られるだろうかというふうに考えたときもあります。しかし現地からの報告では、本当にがれきを何とかしないと復興復旧が前に進まない状況は誰の目にも明らかでしたし、そこで、はたと思ったのは、市議会の全会一致の議決でした。市議会が全会一致で、がれきを受け入れようと決議していただいたのですね。この決議がなければ、自分は挫けていたかもしれないなと。それは風評被害に対する明確な指針というものを国の方から十分引き出せなかったというのがありまして。まあ、その風評被害で困るということもなかったようだし、無事に済んで本当によかったなあと。そしていろんな数値を皆、計りながらやっていますよね、放射能の状況を。これも、皆様方に心配をかける水準まで至らなかったという。やっぱりここぞというときに市議会の議決、市議会と行政とが一致団結して前に進むとき、すごく、我々は思い切り力を発揮できるのだということを痛感した日々でありました。
記者
聞きたいことはたくさん、山ほどあるのですが、とりあえず1問だけお願いします。先ほど、最初に登庁されるときに孤独だったということでしたけれども、今、退任の日を迎えて、先程もまだゆっくりする、考える時間はないということでしたけれども、今は孤独を感じていらっしゃいますでしょうか。
市長
感じておりません、おかげさまで。やっぱりまだまだ課題はたくさんあるとはいうものの、精一杯、市の職員の皆さんの力を借りてやってきたということで、やるだけやったという、そんな思いです。
記者
16年間お疲れ様でした。お伺いさせてほしいのですけども、16年間の北橋市長の色々なご実績をお話いただいたと思うのですが、ご自身の中で、4期16年の中の一番大きな成果だと思われる部分はどこになるのでしょうか。
ということと、16年間で、ご自身でやり残したと思われるような部分はございますでしょうか。
それともう一点ですが、次の新しい市長に対して、北橋市長が期待されることだったり、助言されること等がもしございましたらお願いします。
市長
やっぱり鉄鋼、化学をはじめとして、重厚長大の素材型産業で日本経済を牽引してきた名門の産業地域ですよね。それがやはり産業構造の変化もありますし、急速な円高の進展もあり、海外に投資を加速させるという状況もあって、国内の製造業は、雇用の面でも、いろんな面で大変苦しいときをずっと迎えてきて、それがその人口減にも繋がっているわけです。従って街の勢いを取り戻すためには、新しい産業、若い方々も魅力を感じるような、そういった分野も含めて、ビジネスチャンスを増やすということがこの街の一番大きい課題ではないかと、自分は思ってまいりました。ただその時に、投資を阻んでいるものはやはり、様々な治安に関する報道だと思います。だからやっぱりここに投資したり、なかなかポテンシャル大きいのだけれども、何かあったときに、会社と反社会勢力との関係というものは、これ一大事になるということで、かなり手控えてこられたのではないかと、このハンディが大変大きい地域ではないかと思いました。従いまして、この安全・安心のまちづくりを一生懸命やったわけでありますけれども、県警察の皆様をはじめ、事業者、皆様方の一致団結した、一丸となったこの運動によって、劇的に治安は改善しました。そうしたら、もう投資を阻んでいるもの、投資をためらうものというのはなくなったと思います。それがこの7年間の様々な投資の拡大になっていると思います。従いまして、例えば保健福祉だとか、いろんなところに市の職員と一緒なって頑張って成果を上げているものがいっぱいあると思うのですけれども、この街全体を大きく、投資をもう一遍引っ張ってくるという、これによって街が大きく前進する、拡大するという、そういった意味においては、影響力が大変大きいのは、やっぱり劇的に治安が改善して、もう投資をためらうもの、そういうものがなくなったということが大変大きい成果ではないかと思います。従って、物流しかり、ITしかり、そしてカーボンニュートラルしかり、いろんな投資が北九州にこれから向かってくると私は確信を持っております。
やり残したこと、そうですね。行財政改革というのは、1期目ですね。二、三年後に、財政が事実上の破綻に近づくのでないかというときがあったのですね。行財政改革は1期目から待ったなしでありまして、例えば市長公舎2億円で売るとか、もういろんなことやりました。もうとにかく削れるものを削ると。それでもですね、やはり公共事業の返済する1年間の(市民1人あたりの)費用が、他の政令市に比べると3割ぐらい高いという状況があって、30年払いですからね、ずっと続くわけです。そういう状況の中で、(職員を)1000人減らすという計画をやって、それで100億円稼いだのですが、でも医療費は増えていきますので、(それで)100億円ぐらい消えてしまうということで、行革は一生懸命やってきたのですけれども、やってもやっても、やっぱりその辺がかなり市民の反対というか反発でしょうかね、総論は賛成でも各論はかなり抵抗がある世界と一般に言われますが、行革の場合。それを覚悟の上でもやり通すという、そういう決断といいますか、これは一つの地方行政のあり方としてあり得ると思います。あり得ると思いますが、これは大変に苦難の道かもしれませんが、自分としても精一杯、議会から時には反対の意見も出ましたけれども、その中で、できる限り行財政改革を進めてきたのでありますが、それをもっともっと進めねばならぬという立場からすれば、まだ課題は残っているのが一つ課題だと思いますね。それとやっぱり(令和4年の社会動態が)48人のマイナスのところをプラスにしたかったですね。あの、やっぱり48人が例えば1人でも2人でもプラスになれば1965年以来、初めて北九州はプラスになったという、このやっぱり発信力っていいますかね、北九州は劇的に変わっていくのだということを発信する絶好の材料だと思いますね。これがやっぱりできなかったというのは、あと48人、うーんと思っています。
新市長のこと、まず激戦だったと思いますので、お疲れ様と申し上げたいと思います。私は津森さんの応援団の1人であったわけであります。そういう意味では、自分の願いはかなわなかったわけでありますが、選挙が終わりました。民意が示されました。もちろん選挙戦術をめぐってはいろんな評価があり、反省点もいろいろあるかもしれませんが、結果として、新たな市長が選出されたわけであります。まずは、新市長に対してお疲れ様と申し上げたいと思います。その上で、これから引き継ぎを、先例に従って行うわけであります。これは末吉さんから僕の時もそうだったのですが、短時間で済みます。と言いますのは、膨大な資料、何メートルもあるくらいの資料が、新市長を待っております。その中のエッセンスをまとめた資料をお渡しするというのが、末吉さんから私のときの引き継ぎで、あとはこう言われました。市の職員と一緒にやってきたから、市の職員からよく聞いてくれと。私はどう言おうかなと思っているのですけど、やっぱり同じようなことになるのかなと。非常に行政、いろんな実務にも明るい方だと察しておりますので、まずはそのエッセンスをお示しして、市の職員が一緒になって、この現状と課題をまとめてきているので、まずはよく対話をしてお話を聞いて欲しいということを申し上げ、それが一つとですね、市の職員を信頼して、どうぞ存分にひとつ、一緒に良い仕事をして欲しいということが一つですね。2番目にやっぱり、民意を代表しているという点においては議会のプレゼンスは大変大きい。そういう意味では、議会と新市長が真摯に対話をして、時には意見が食い違う時もあるでしょう、自分もそうだった。でもですね、意見が一致する時も多いと思うのです。それはお互いに市民のために市政の発展のために議論して、議論を尽くして、政策を述べているわけですから、共有できる世界、重なる世界もあると思います。そういう点はですね、しっかりと市民のために頑張っていい仕事をしていって欲しいなと思います。
担当者
時間が過ぎましたのであと1問でお願いします。
記者
16年間お疲れ様でした。ありがとうございました。色々なご功績がある中で、環境都市の推進ということも先ほど挙げられていらっしゃいました。イメージもしっかり定着されているかと思うのですけど、種を蒔いて芽が出てくるというのが、これから出てくるものもあろうかと思います。それを前に退任されることについて、どのようにお考えでしょうか。
市長
そう言われて、5期目をやってみろと多くの人に言われました。ただ、思うのですけれども、自分は福田内閣で1期目、環境モデル都市で手を挙げまして、六つの都市、政令市は京都と北九州が選ばれた。そして環境モデル都市の全国協議会の会長を仰せつかったのですが、次の民主党政権で環境未来都市に名前が変わりまして、社会も経済も加えて目指すということになってそこでも引き続き、全国の会長を仰せつかっておりました。それはやはりですね、谷さんの公害克服、末吉さんの時のリサイクルの拠点と、海外に対する水ビジネスであったり。やっぱり諸先輩が市民各界と一緒になって頑張ってきた成果の上に、政府からも認められたという経緯があります。そういった意味では、いろんなことを言われました。私が1期目に当選した時には、基本的に重要な政策についてはかなり継承、発展しているんではないかと思います。それが今は、今度はSDGsという、最近の政権ではそう言われておりまして、今は全国協議会と言わずに、今風に地方創生SDGs官民連携プラットフォームという長い名前になっております。その会長を仰せつかっているのですが、やっぱりこういうふうに環境、SDGsと来ているのは、諸先輩からのやっぱり継承、発展だと思っておりまして。もちろん中身は、公害とか資源循環とか、リサイクルなのですよね。自分がやっているのは、炭素を減らすという、ちょっと質的にかなり困難な、これは本市にとって見れば、結構ハードルの高い次元に入るわけなのですが。そういう質的な変化はあるにせよ、環境に賭けてきたこの市民力という意味においては、継承、発展をしてきていると思います。ぜひこれは、次の市長さんのもとで、継承、発展で、さらに発展をしていって欲しい。ただ状況的に言うと、例えば洋上風力がありますが、今度は新しいリサイクルの関係も増えてきているのですね、北九州にまた。それから水素・アンモニアという、これはこの拠点をつくったところというのは相当程度、製造業のプラスがあると言われています。そういうことで、いよいよ環境で飯が食えるというか、今まではおいしいお粥だったのが、本当に銀シャリを食べられる時代に今から入ってくるので、環境の継承、発展というのはすごく楽しみが大きいと思いますね。ぜひそれは新市長の元で、大きく実らせて欲しいと願っています。
担当者
それでは、質疑応答は以上となります。
※質疑応答終了後、下記の追加質問あり(会見動画には未収録)。
記者
度々言われていたのですけど、市長の今後、政界から引退されるのかを含めて改めて教えていただきたいです。
市長
御社の質問はいつも先へ先へという、あまり反応しないように。柄には見えないかもしれませんが、一応、晴耕雨読で頑張ってみようと思っておりまして。ただ別に回想録ということではないのですけども、16年間の歩みというのは、いろんな意味で、自分自身のいろんなことの、メモランダムでもありますし、場合によってはこの間、市政に関わってきた方々にとっても参考資料になりうると思いますので、何らかの形で記録はまとめたいと思っておりまして、これにはちょっと時間がかかるのかなと思っております。もう選挙に出る気は毛頭ありませんとか、あんまりそういうことは言わないほうがいいという、今日はここへ来る前に先輩から言われておりまして。
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