安川敬一郎の日記は、現在、北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)に所蔵されています。博物館では翻刻・刊行することを計画し、全5巻中第4巻まで刊行しています。
安川敬一郎日記は、明治専門学校設立の話や中央政財界とのやりとりなど様々なことを教えてくれます。以下に掲載した文は、安川敬一郎日記を自然史・歴史博物館学芸員 日比野利信氏が解説したものです。安川敬一郎の偉業とともに、それを成し遂げた安川敬一郎の人となりを感じとってください。
「安川敬一郎日記」
1「東奔西走する安川敬一郎」
安川敬一郎氏
日記により、1899(明治32)年から1906(明治39)年の安川敬一郎の宿泊地と日数を集計してみました。当時、自宅や安川商店本店があった若松は多い年で155日、少ない年は65日で、自宅以外の宿泊がとても多いことがわかります。炭鉱のある筑豊、商店支店や九州鉄道本社がある門司と対岸の下関、出身地の福岡に行くこともしばしばでした。一方、大阪や東京行きも多く、大阪は多い年で87日、少ない年で53日、東京は多い年で98日、少ない年で62日におよんでいます。毎年1ヶ月は移動日(車中・船中泊)です。いずれも政財界の有力者に会い、さまざまな問題に関する協議や交渉を行うためでした。北九州の地方企業家である安川は、地元や大阪・東京を「東奔西走」することで、事業の進展と問題の解決を行うことができたのです。それを可能にしたのが鉄道や航路の発達でした。
夜行列車で移動中に、大雨で大井川鉄橋が破壊された時のこと。安川は乗り合わせた元福岡県警部長の助けで船を予約し、浴衣1枚でずぶ濡れになりながら、やっと大井川を渡りました。馬車に飛び乗って駅へ急ぎ、満員の列車に辛うじて乗り込んで、どうにか東京にたどり着きました。移動の大変さとともに、安川のなりふりかまわない一途さが知られるエピソードです。
2「明専の設立 その1」
明治専門学校本館
1909(明治42)年4月1日に仮開校(正式開校は5月28日)した私立明治専門学校(現・九州工業大学)ですが、学校建設に関する日記の初見は、1906(明治39)年4月24日です。その日、安川敬一郎は息子の松本健次郎と安川清三郎(三男)と「戸畑山林乃原野ヲ踏査」し、「其絶景壮快快闊」で「私立学校二好適」と評価しています。早速用地買収に着手しますが、10月6日には、第二候補として、福岡市の箱崎地蔵原官林を想定し、県庁に相談しています。結局は戸畑に建設されますが、箱崎には後に九州帝国大学(現・九州大学)が建設されたことを考えれば、安川の着眼はさすが鋭かったわけです。
学校の名称については、1906(明治39)年7月10日に「九州大学」と出てきます。まずは採鉱冶金・機械・商業の三科から成る工学部を開設し、随時拡大していくという壮大な構想でした。「九州商工大学」「工商学校」といった名称も見えますが、「明治専門学校」という名称は1907(明治40)年4月5日に初めて出てきます。「明治鉱業」「明治紡績」と、この時期に安川が設立した会社と同様に、日本にとっても安川にとっても輝かしい時代としての「明治」が付けられたのです。
3「明専の設立 その2」
旧明治専門学校標本資料室(現・学生支援プラザ)
明専の設立については、日露戦争の際、石炭業の著しい好況により莫大な財産を得た安川敬一郎がその大部分を投じて、宿望である教育事業を実行したと理解されてきました。しかし、日記の1906(明治39)年9月20日には、安川が買い集めた九州鉄道・山陽鉄道両社の株が、鉄道国有化(国による鉄道会社の買収)によって公債に転換した、その額約270万円を設立資金としたとあります。実際、安川と松本健次郎が、1907(明治40)年6月5日に財団法人を設立した際の寄付額は、現金90万円と五分利付国債証券額面240万円でした。
鉄道国有化の情報を入手した安川が、石炭業の利益を元手に、鉄道会社の株を買い集めたことが明専設立を可能にしたわけです。安川のさまざまな活動を考える上で、彼の明敏な投資家としての面にも注目すべきでしょう。
4「失われた日記には?」
当時の明治鉱業社屋。北九州市発足当時は教育委員会が使用していました。
安川敬一郎の日記は、「第七号」が1907(明治40)年11月4日で終わった後、1915(大正4)年1月1日から始まる「第十一号」までの3冊(約8年分)が失われています。松本健次郎によれば、そのうちの2冊は、安川の死後まもなくから欠本となっていました。
日記を欠くこの時期、安川は炭鉱経営を整理・統合して1908(明治41年)、明治鉱業を設立し、さらに、明治紡績を設立して紡績業に着手しました。また、1909(明治42)年、明治専門学校が開校し、翌年、安川一家は若松から戸畑へ居宅を移しています。安川は炭鉱業を確立し、他業種に進出して、戸畑を拠点に「地方財閥」として新たな展開を遂げていきます。もし、日記が残っていたら、その詳細を知ることができたのにと残念でなりません。
5「明治から大正へ(心境の変化?)」
愛用のトランク
1907(明治40)年末から1914(大正3)年末の日記が失われていますが、その前後の日記を読むと、安川敬一郎の趣味的活動が大きく変わったことに気づきます。
明治時代の安川は毎年夏の避暑旅行のほか、折々に各地を旅行しています。東京や大阪滞在中は多忙を縫って、相撲観戦、囲碁、謡曲のけいこを重ねました。
ところが、大正時代の安川は旅行には行かず、相撲観戦こそ続きますが、囲碁や謡曲もほとんどやらなくなりました。代わりに論語など儒学の古典を熱心に研究するようになったのです。安川が雑誌「筑紫史談」に連載した「論語漫筆」はその成果といえます。福岡藩の儒学者の家に生まれた安川は自身も学問を志しましたが、二人の兄が非業の死を遂げたために断念せざるをえませんでした。事業が確立した後、安川は改めて学問の道を志したのかもしれません。
6「大正時代の安川敬一郎(地方企業家から「国士」へ)」
安川家ゆかりの旧松本家住宅日本館
安川敬一郎は70歳を迎えた1918(大正7)年に「引退」しますが、その前後を通して取り組んだのが、中国企業と共同で製綱工場を建設・経営するというプロジェクトでした。こうして1917(大正6)年、黒崎に九州製綱株式会社が設立されます。
また、安川は1914(大正3)年、衆議院議員に補欠当選し、帝国議会解散後の翌年の総選挙にも立候補します。結果は落選でしたが、その後も安川は大隈重信、寺内正毅、原敬の歴代首相に会いに行き、挙国一致内閣を実現して中国との外交問題を早期に解決するよう求めるなど、積極的に活動しました。
このような安川の活動は、政治・経済両面で日中親善が進展することを目指したものでした。九州製綱の経営は失敗〔1934(昭和9)年に日本製鐵に譲渡〕し、挙国一致内閣運動も不調に終わりました。しかし、結果は別にして、「引退」後の安川は一地方企業家にとどまらず、国家全体を考え果敢に行動する「国士」であったと言ってよいでしょう。
7「最後の日記」
1934(昭和9)年3月18日、安川敬一郎は、福岡藩の儒学者亀井昭陽と弟子の徳永玉泉(安川の伯父)の百年祭を挙行しました。儒学者の家に生まれ、自らも学問を志した安川の最晩年の大事業でした。
その事業を終え、4月に86歳を迎えた安川は平穏な毎日を送っていましたが、その年の11月5日の日記に「今朝少し疲労を覚ふ」とあるように体調を崩します。しかし、2週間の静養のあと、百年祭列席者へのあいさつと孫の結婚式に出席するため、19日に上京します。細心の注意と万全の準備を行っての上京でしたが、無理がたたったのか病に倒れ、30日午前6時20分、滞在先の東京渋谷区の別邸で死去しました。病名は「冠状性動脈硬変による心臓性喘息」でした。
上京出発前日の11月18日に「出立の準備整へり」と結んだのが最後の日記となりました。
1912(大正元)年8月7日、家族とともに
前列左から安川第五郎(五男)、安川敬一郎、安川峰子(妻)、安川初子(長女)
後列左から安川清三郎(三男)、松本健次郎(次男)
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