明治中期以前は藍島(17戸)馬島(8戸)は農業が主で、細々と暮らしを立てていた。四方を海で囲まれ、漁礁、魚場に恵まれていたこれらの島では、島民は徐々に漁法を覚え、舟を作り魚網も改良され、半農半漁の島となっていった。
漁獲量が増加するにつれて、鮮魚や農作物(かんしょや野菜)を舟で若松、戸畑、小倉等に商い、帰りには、肥料や漁具、雑貨等を仕入れて帰るようになった。 古くは距離的にも近く、潮流や風の影響も少ない若松が取引・交流の中心であった。
「舟」といっても小型の木造船で、帆が動力であるため、風の無いときは櫓や櫂を使用する程度、途中で釣り糸をたれることもあったといわれている。
この他での本土との交流は、いわしやあじ等の最盛漁期に山口県鐘崎方面から入漁料を払ってやってくる漁船に便乗させてもらったともいわれている。
どうしても便船がないときや緊急の場合は『役目』といって三戸一組になって、順番を決め、舟を仕立てていた。医者や官吏の送迎などにはこの『役目』が従事しており、この便船で1ヶ月に3回の郵便が配達された。
明治も末期になると、『〒旗』を立てた舟により、月5回の収配達が行われるようになった。
この郵便物は長浜郵便局が受け持ちで、当時の配達料は1回に2円もしたとのことである。
いったん季節風で海が荒れると、長期間の欠航が余儀なくされたため、島民はまさに一日千秋の思いで海を眺めていたであろう。