ページトップ
印刷用ページ
現在位置:トップページ > 八幡西区 > 区のみどころ > 歴史・文化 > 長崎街道木屋瀬宿 > 木屋瀬出身の偉人たち

木屋瀬出身の偉人たち

更新日 : 2023年6月15日
ページ番号:000010069

伊馬春部(いまはるべ) 劇作家・放送作家・歌人

明治41年(1908年)~昭和59年(1984年)。本名:高崎英雄。
 木屋瀬が生んだ文人で、放送作家の草分け的存在として知られています。
 鞍手中学校(現鞍手高等学校)から國學院大學へ進み、民俗学者折口信夫(歌人・釈迢空)に師事。伊馬鵜平の筆名で「新宿ムーラン・ルージュ」創立期の座付き作家の一人として活躍しました。戦後は春部と改め、ラジオ・テレビ・映画・舞台の脚本などを手がけ、数多くの作品を残しています。昭和51年(1976年)の宮中歌会始の召人でもあります。
  また、母校鞍手高等学校、地元の木屋瀬中学校など、数々の校歌・市歌の作詞をするなど幅広い分野で活躍しました。

九州山十郎(きゅうしゅうざんじゅうろう) 力士・大関

 明治22年(1889年)~昭和2年(1927年)。本名:青山十郎。
 左を差して一気に寄り切る豪快な取り口を得意とし、大正7年(1918年)に大関になりました。身長175センチメートル、体重124.5キログラムのがっちりとした体格をしていました。当初、遠賀川の川ひらた(川舟)で働き、素人相撲で活躍していたころ勧められて上京し、明治44年(1911年)に出羽の海部屋に入門。
 大正6年(1917年)に扇天満宮裏で九州山勧進元の地方巡業が行われました。

麻生東谷(あそうとうこく) 絵師

 天保7年(1836年)~明治41年(1908年)。
 本名は仁平、木屋瀬の商家「三塩屋」に生まれました。12歳頃から福岡の南画家村田東圃に師事。5年ほど学んだ後木屋瀬に戻り、家業の米穀業を継いでいます。独学で絵を描き続け、明治34年(1901年)に「楊貴妃画」が全国南画共進会で二等賞、翌年には「西園雅集」が一等賞を受賞しました。花鳥図のほか、人物・風俗画も得意としました。
 近隣の社寺には、東谷の描いた絵馬や襖絵が残されています。木屋瀬宿記念館では、作品をはじめ印章や絵道具などを保存しています。

新谷鐵せん(しんたにてっせん) 絵師

 慶応3年(1867年)~昭和29年(1954年)。
 本名は慶蔵、木屋瀬に生まれました。親戚の鍛冶屋に勤め、後に独立。生業のかたわら若松の南画家木村耕巌に師事し、「月下の虎」で評価を受け、41歳頃画業に専念することを決意しました。山水・花鳥・虎などの絵を描くほか、達磨を得意としていました。大正末には福岡で画業を行い、昭和2年に中国・朝鮮・台湾などを旅して翌年帰国し、田川郡糸田町に居を構えました。永源寺には、京都清水寺の大西良慶師の賛のある「達磨絵」が残されています。

野口援太郎(のぐちえんたろう) 教育家

 明治元年(1868年)~昭和16年(1941年)。
 生徒の個性を伸ばす自由な教育を実践した教育家です。
 江戸時代の宿場問屋、野口家の長男として生まれました。木屋瀬小学校に学び、鞍手郡公立中学校を卒業後、一時木屋瀬小学校の教師を務めました。福岡師範から東京高等師範へ進学、卒業後は34歳の若さで兵庫県第二師範(姫路師範)の初代校長に就任しています。自治自由をモットーとする寄宿舎を設立、生徒の個性や自立を目指すユニークな教育で、師範教育改革の模範と評されました。
 退職後も、世界新教育会議日本代表など活動は多彩です。スイスの教育家ペスタロッチと対比され、「日本のペスタロッチ」とも言われました。

吉田貞雄(よしださだお) 理学者

 明治11年(1878年)~昭和39年(1964年)。
 専門の寄生虫研究で、世界的に高く評価された学者です。
 八幡西区金剛に生まれました。木屋瀬小学校、鞍手郡立直方高等小学校から福岡県立尋常中学校修猷館を経て、東京高等師範、さらに東京帝国大学理科大学動物学科を卒業。大阪帝国大学理科大学教授となり、寄生虫教室を開設しています。また、米国イリノイ州立大学優待員として招かれ、有力な科学者団体「シグマ・サイ」の会員に推薦されました。(財)船員病並びに熱帯病学奨励会賞を受賞するなどその活躍ぶりがうかがえます。
 昭和13年、吉田貞雄還暦祝賀会の祝辞で、野口援太郎は彼の不撓不屈の努力を褒めたたえています。

渡辺玄外(わたなべげんかい) 僧侶

 安政4年(1857年)~昭和3年(1928年)。
 木屋瀬下町に生まれ、幼名は徳平。幼少より他家に預けられた後第二次長州征伐の戦災に遭い、福岡市姪浜の三楽院に入りました。12歳のとき崇福寺で得度、31歳頃玄外と号し、37歳で崇福寺の住職となり、八幡帆柱山麓に大正寺を建立。黒田家の菩提寺である崇福寺の復興や大徳寺の諸施設を拡充するなど多くの足跡を残しています。
 堂々たる体格で気骨がある僧侶として伝えられています。
 博多妙楽寺にある伊藤小左衛門(二代目)哀悼碑は、江島茂逸の文を玄外が書いたものです。

このページの作成者

八幡西区役所総務企画課
〒806-8510 北九州市八幡西区黒崎三丁目15番3号 コムシティ5階
電話:093-642-1442 FAX:093-622-6463

メールを送信(メールフォーム)

このページについてご意見をお聞かせください

お探しの情報は見つかりましたか?

【ご注意】

  • 業務に関するお問い合わせなど、お答えが必要な場合は直接担当部署へお願いします。
    上の「メールを送信(メールフォーム)」からお問い合わせください。
    (こちらではお受けできません)
  • 住所・電話番号など個人情報を含む内容は記入しないでください。