長崎街道について
江戸時代徳川幕府の元和元年(1615年)、武家諸法度で大名の参勤交代が義務付けられ交通整備が本格化すると、まず五街道がつくられ脇街道として山陽道や長崎街道などの十街道が次々と開通していきました。また、江戸中心の街道を幹線道路とし、全国に宿駅を整備しました。豊前小倉と長崎を結ぶ長崎街道は、九州で唯一の脇街道です。
57里(約228キロメートル)のこの街道には25ヶ所の宿場があり、このうち福岡藩内の黒崎・木屋瀬(現在の八幡西区内)、飯塚・内野(飯塚市内)、山家・原田(筑紫野市内)の各宿は、筑前六宿と呼ばれ、大変なにぎわいをみせました。
長崎街道は鎖国体制を敷いていた日本の中で、唯一外国との文化交流や通商の窓口にしていた長崎から西洋の文化や新しい技術などを伝える文明の道として、重要な役割を果たしていました。
長崎奉行やオランダ商館長が江戸往来に利用し、また九州西半の大名が参勤交代のために通った他、多くの学者や文人、幕府の献上品として白象やクジャク、さとうきびなどの異国の動物や物産も通った華やかな街道でした。
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