時間短縮の向上だけじゃない。
複雑なデザインを可能にした機械導入。

小倉織物製造株式会社 代表取締役 築城 弥央さん

― 小倉織の歴史を教えてください。

小倉織の歴史は、江戸時代豊前小倉藩の頃に遡ります。温暖な気候の小倉では、綿花の栽培が盛んで、それに伴って綿織物の技術も栄えました。古くは、徳川家康が鷹狩の陣羽織に使っていたという歴史もあるほど。武士の袴といえば、小倉織として全国に普及し、その扱いやすさ、丈夫さから庶民の間でも愛用されていたそうです。その技術は、備中、土佐、備前児島と様々な地域に広がっていきました。日本のデニムのルーツは小倉織とも言われています。明治期に入ると、小倉織は学生服の素材として全国に広まり、夏目漱石や田山花袋の小説の一節にも小倉織の学生服が登場します。しかし、大量生産時代の到来と共に、粗悪なコピー品が出回るようになり、また戦時下での工場の倒産もあり、小倉織自体が廃れていきました。当時最大で200軒ほどの工場があったそうですが、1軒も残ることはなかったようです。

― そんな小倉織を復興したのが、築城則子先生ですね。

はい。築城則子氏はもともと小倉の出身ですが、小倉織は知らないままに育ちました。大学時代に能装束に魅せられて、染織家の道に。全国の産地で織を学ぶなかで、ある日、地元の骨董品店で、心を引き付ける小さな端切れに巡り合う。それが小倉織でした。こんなに素晴らしい織物が自身の地元にあったことに感銘を受けて、熱心に研究し、手織りでの復元を成功させました。

― 小倉 縞縞というブランドはどのように立ち上がったのでしょうか?

築城則子氏の小倉織復元後、手織りの小倉織は人気を博し、伝統工芸品としても高い評価を得ていました。しかし、手織りだけでは普及に限界があります。もともとは、汎用品としてみんなが使っていたもの。「もっといろんな人に小倉織の魅力を知ってもらいたい」という思いから、築城則子氏の妹である渡部英子((株)小倉縞縞・代表)と機械織での小倉織復元に着手し、2007年に『小倉 縞縞』というブランドを立ち上げました。

― ブランド設立当初の生産体制はどのようなものでしたか?

築城則氏子がデザイン監修を行い、製造に関しては市外の機織り工場にお願いし、受けてくださったおかげで機械織の小倉織を世に出すことができました。ただ、やはり距離が離れていますし、小倉織の技術はすごく手間もかかる上に、デザインも複雑で、こだわりも強い為、外注では対応が難しいことが増えていきました。

有り難いことに「小倉 縞縞」は着実に人気を博して、海外からの引き合いも多くなってきました。海外では、小ロットで多彩なデザイン、なおかつ短納期も求められます。そうした流れもあってブランドと直結した製造ルートを持とうという流れに自然となっていきました。

― 町中に工場をつくる。このユニークな発想はどこから生まれたのですか?

工場といえば、海や山など、町からは離れているイメージですよね。しかし、弊社の場合は、今まで「小倉 縞縞」が培ってきた営業企画力、ブランディング力を、製造に活かし、それらを一体化するために、何より「『小倉』の地で『小倉織』を」という強い思いから、最初から町中で場所を探しました。そんな時に、たまたま小倉駅からほど近いビル内にある新聞印刷工場跡地の情報が入ったんです。もともと工場ですから、耐震や防音など、工場を作る上での複雑な手続きがクリアしやすいのもあり、スムーズに場所が決まっていきました。色々なことを検討した結果、毎日新聞社様の多大なご協力のもと、2階の発送場跡地をお借りすることができました。

スズキワーパー製 整経機
撮影:大森今日子

― 工場内を大幅に占有しているこの大きな機械。この導入に至る経緯は?

織物工場を作るにあたって、このスズキワーパー製の「整経機」導入は必須でした。この機械、全国に数10数台しかない希少なモノです。そもそも、今の日本では新しく繊維業を立ち上げるような会社がほぼなく、この機械は群馬県桐生市で生産されていますが、そのほとんど海外に輸出されているそうです。

織物は、まずたて糸をつくり、そこによこ糸を通して織るという、大きく分けて2つの工程に分かれています。なかでも、小倉織にとっては、一般的な織物以上にたて糸がカギとなります。通常たて糸とよこ糸の比率は一対一で織られることが多いですが、小倉織の場合はたて糸をよこ糸の3倍の量、なおかつ細い糸を使うことで、非常に高密度となり、丈夫かつしなやかな質感と、美しく繊細なグラデーションを描く独特の縞模様がうまれます。この整経機を使えば、今までなら2週間ほどかかるような複雑なデザインも、パソコンでデザイン表を入力し糸をセットすることで、自動的に3日ほどで完了します。しかも、時間が短縮できるだけでなく、正確にミスなく整経できます。

― 生産性の向上に大きく役立っている感じですね?

はい。もちろん、時間の短縮という意味も大きかったですが、複雑なことにチャレンジできる点も強いところですね。今まで手織りでなければできないと言われていたようなデザインも、この機械を導入することによって、限りなく近い表現ができる様になりました。つまり、生産性の向上だけでなく、デザイン力があがったことも、強みになっています。

― 最新の機械の横で、随分、年期の入った機械も稼働中ですね?

小倉織の命とも言えるたて糸デザインをつくる整経機は新品ですが、よこ糸を通す織機(しょっき)は全て中古品です。価格が抑えられるというのもありますが、最新の織機はスピードが早すぎて、小倉織の密度にはなかなか合わずに傷も入りやすい。独特の風合いが出しにくいので、あえて中古の機械を導入しました。機械にはすべて、名前を付けています。織機がそれぞれ、「太郎」「次郎」「花子」「桃子」。整経機は「マザー」。日によっては、誰かしらの調子がイマイチのときもある。それは、人間も同じですが、名前をつけることで、スタッフもよりいっそう愛着を持って向きあえているようです。

― 工場内で働いている人数が少ないのも印象的ですね。

一般的な工場ではひとつの工程につき担当がそれぞれついている、ライン製造のイメージが強いと思いますが、弊社は少人数体制なのもあり、多能工として、全工程をひとりが対応できるようになっています。織物というと職人世界の印象が強いかもしれまぜんが、機械化によってオペレーションができればある程度の作業が可能になっています。働いているスタッフの動機も、「モノを作りたい」「小倉織が好き」という志が根底にあります。手織りで一から修行となるとハードルが高いかもしれませんが、機械織の工場で働くことで好きなモノづくりに関われて、小倉織を自分たちの手で生み出せているのは、大きな満足につながっているようです。

もちろん、大きいものを運んだり、しゃがんだりの作業も多くあります。しかし、様々な機械を活用して、女性も働きやすい環境づくりを心がけています。今後、どこの工場でも人材不足が懸念されていますが、こうした改善で業界のハードルを下げていけるのではと期待しています。

スズキワーパー製 整経機
撮影:大森今日子

― 空間も含め新旧のバランスがよくとれていますね。

当時の新聞発送作業を行っていた名残りを、あちらこちらに残しながらリノベーションさせていただきました。スピーカーや、天井から出ている釣り金なども全部当時のまんまです。ただ、がちがちの「工場」というイメージではなく、シンプルですっきりとした空間に見せるために、壁や天井、コードなどを全て白に塗り直しています。弊社工場をご覧になってラボのようなイメージを持たれる方も多いですが、白にしたのは糸の色がキレイに見えるというのが一番の理由です。ちなみに、この「マザー」を搬入するときは、かなり大掛かりな作業でした。使用許可をとって道路を通行止めにして、1階から2階へクレーンで吊り上げたんですよ。本当にギリギリのサイズで、見学に訪れた方には「よく入ったね」と驚かれるます。

― こんな抜群の立地がよく見つかりましたね?

いつか工場をつくりたいという思いは温めていましたが、動き出してからはあっという間でした。いろいろなご縁があったお陰ですが、北九州市からの情報提供や、さまざまなご紹介も有り難かったです。特に、工場を作るにあたっては各種の申請が必要だったのですが、北九州市のご担当者はそうした書類にかなり精通されているので、たくさんサポートをいただきました。町中に工場をつくったお陰で、お客様にも来てもらいやすいのもいい点です。あえて工場の廊下側をガラス張りにしているのですが、いずれは地元の子どもたちにも知ってもらえるような見学の機会なども提供していきたいですね。

― 新しい取り組みが成功している秘訣は?

やはり、先に売り先があって、「小倉縞縞」でブランディングしてきたことで、連携したゴールや魅せ方が分かったモノづくりができていることが大きいと思います。これからのモノづくりは、“待ち”の姿勢ではなく、“発信型”の事業展開がより求められていくと思います。

小倉縞縞 スタッフ
撮影:大森今日子

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